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 もっと物語に夢中ににさせてくれよ、現実なんて見たくもないから。ほら、終わらない歌を唄っていたい。だれしも、いつでも、理想はそこにあって輝いているべきなのだ。理想とは、終わりもせず始まりもしない。僕は見たね。触れたね。その理想に。そんなもの掴めやしないことを、知りたくはないが。僕が思うに、僕の身体も精神も移ろい煩わしくて、それをつかむ試みさえいつの間にか忘れている。でも、ここに置いた文字の数々は違う。これらはけっして思いつめることや、考えることをやめたりはしない。これは、つまりは、僕の希望なんだ。僕が歩みをとめざるを得ない時も、そこに僕の精神が息づいている。それはね、いつしか僕が僕でなくなってもそのままそこにあるだろう。

 この物語が、ほかの物語との通い路になればいい。誰のためにも。わたしのためにも。

 彼らは狂っている。とても愉快に悲壮に。酒を呑んでクスリを喰らって、笑いながら、嗤っている。あっはははは。はははっ!空の酒瓶を握りしめて、見えない悪魔が居ようものならかかってこい。そしてまたあたらしい酒瓶を手にとり泣きながら、なにかに祈りながら、至高の幸福を味わい尽くす。安らぎの中に、愛情をみつけて自らの身体を抱きよせる。目が覚めたら、ハッピーになっていたい。そんな言葉が、自分の耳にも入らないように小さく小さく呟いている。ゆるりゆるりとそんな想いも漂っていき、路地裏の猫や鼠にも微かに伝染する。よく朝、そんなことを忘れていても、猫や鼠どもの間でさけくせえさけくせえなんていわれながらも漂っていく。あくる日も、またあくる日も、何度めの物語かも忘れて。それでいい。

 

 或る人間のお話だ。

 

 どこか歪んだ人間というのはいるもので、たいていその奇妙な歪みを繕おうとして四苦八苦している。
 やめておけ。わたしは彼にそういった。今だから思う。心にもないことを、口に出すべきではなかった。どうしようもないのだから行ってしまえ。恐らく、そんな言葉こそ彼を救い得たのかもしれない。でも、私はあいつにそんなことはいってやらなかった。どうせ、あっちのほうでもそんなことを私にいってはくれなかっただろう。

「いつか、救いにありつけるだろうか。」彼は言っていた。
彼はひどい有様だった。頬はこけ、目に精気はなく、見るに堪えない苦悩の有様だった。おまけに濡れ鼠で、外套からも、その黒髪からも水滴が滴り落ちている。
 私はそんな彼を見たくなかった。彼の汚らしさを敬遠したわけではない。彼の陰気や憂鬱は、私も彼と同じく抱えているもので、彼と同じくそれを必死で覆い隠して取り繕うことに神経をすり減らして来たからだ。そして、彼の問いに対する答えを私は持ち合わせていなかった。
 なんのことは無い、私もいずれ彼と同じように消耗して生まれ持った魂の価値を喪失するのだろう。彼を見てそんな想像をしてしまう自分がやるせなかった。
「近くに私のアパートがある。取り敢えず着替えて、シャワーを浴びて、それから何か食べよう。」
 そのとき彼は初めて私の存在に気づいたらしく、驚いて眼を見開き言った。
「こんなところで、奇遇だねえ。」彼の言葉と表情は快活そのものだった。私はまた別のやるせなさを感じたが、敢えて快活に返した。
「こんなところで何をしているんだ。こんな汚い路地裏に座りこんで何か楽しいのか?おいおい。」そして精一杯口角を上げた。
「人生に終止符を打つべきか否か、考察していたところ。たぶん、僕の無能は罪悪だ。」
「さっきも言ったけど、近くに私のアパートがある。取り敢えず着替えて、シャワーを浴びて、それから何か食べよう。」
「なあ、いつか救いにありつけるだろうか。」

 私から見た彼は、実直で誠実で、少し頼り無いけれども優しい人間だった。私は彼のことが好きだった。一度もそんなことを口に出して言ったことは無いけれど。でも、彼に縋りついたとして、彼は私の重みに耐えられるはずもないと思う。
「いいから来なさいよ。風邪ひくよ。」半ば引きずるようにして彼を私の部屋に連れて行った。彼の外套を脱がせてやり、タオルで髪を拭く。シャツを脱がせて後は浴室に放りこむ。やっぱり、彼のことが愛おしいと思った。

鍋に水、塩を入れてガスコンロの上に置く。点火して、最大火力。鍋にふたをする。

パスタでいいだろう。
鍋の水がお湯に変わるまで、手持ちぶさたで、旨くもないのに煙草に火をつける。

「なあ、お湯が出ない。聞いてるか。」彼のくぐもった声が浴室から聞こえた。
無言で給湯器のボタンを押す。

「オーケー。」それだけ言った。

茹であがったパスタと、石鹸の臭いのする彼と食卓についた。しばらく無言でパスタを口に放りこむ。

「すまんね。ありがとう。」ぼそりと、視線を落として彼は言った。
「くそやろう。」抑揚のない声で、私が答えた。

アルコールが入っているときは、私ももう少しまともな返答ができるのだが、今は疲れている。

「また今度な。」
「また今度。」

そうやって、また同じ過程を繰り返すのか。少しも嬉しくない。いつもいつだって。いつからだろう。

 

私たちはいつだって苦しい。いつだって惨めで、無様だ。それでもね、信じるものが無いわけじゃあない。誰からも認められず、価値を見い出されず。

 

彼は泣き笑いの顔で言っていた。

「なあ、俺たちは魔法使いじゃあないんだよ」。くだらないジョークだった。


 誰も私たちの道化を許さないなら、私たちにはもう何もできない。私たちはいつだって真面目に道化を演じているのだ。許されてしかるべきでしょう。一生、道化のままに全てを演じきってしまいたい。だから誰も、私や彼を一個の人間として見てくれるな。道化を見て、夢中で手を叩け。